ずっとゴリラになりたかった
入社して以来、ずっとゴリラになりたかった。
周りの活躍している先輩たちはラグビー部が9割、残り1割は他のスポーツで日本一の人たち。
そんな環境下で20代女子ひとり。もちろんラグビーもやったことがないし、スポーツで日本一になったこともない。
だから、ずっと違う生き物になりたかった。
ずっとゴリラになりたかった。 いや、なりたいのではなく、ならないとここでは生き抜いていけない。そう思っていた。
2度目の挫折をした
入社1年目の9月。働けなくなったことがあった。土日に作業をしても仕事が終わらない。そんな日々が続く中でダメになってしまったのだった。
そして迎えた入社2年目。異動して新しい部署で心機一転。
しかしそこでもまたダメになってしまった。去年と同じ、働き過ぎが原因だった。
1週間会社を休むことにした。すべてが限界だった。
それでも会社は悪くない
生き残れない私のほうがおかしい。
自分が至らないから、足りないから、弱いからいけないんだ。
仕事をしっかりやっているうちはチヤホヤしてくれていた会社の人たちも、いざ限界になって働けなくなると誰も助けてはくれない。
家族からも「うまくサボることを知らないお前が悪い」「会社では、60点のクオリティーでも長く走り続けられる人のほうが評価される」「どんなに優秀でも長く働けない人は要らない」と言われた。
それもそうだな。そう思っていた。 自分を責めるしかなかった。
『キャリアブレイク』との出会い
そんな折、何気なくInstagramを見ているとある本が目に入った。
『キャリアブレイク』という本が紹介されていたのだ。 「本のすみか」という本屋さんの投稿だった。
帯にはこう書いてある。
手放すことは空白ではない
履歴書に空白ができるのを恐れていた私に、ほんとうに必要な本だと思った。すぐに注文した。
この本の中で、日本における働き方の規範として「マッチョイズム」が紹介されている。全身全霊で働くこと、仕事を最優先することを労働者に強いる価値観だ。まさに、私が所属している会社の体育会系のノリだ。
「マッチョイズム」の人から見れば、「キャリアブレイクという概念は空白(ブランク)と化してしまう」とのこと。
そうか。合点がいった。
違う生き物になろうとしなくてもよかった
この会社でサバイブしている体育会の人たちと私は、そもそも違うのだった。
私には強靭な肉体もタフなメンタルもない。そもそも持っているリソースが違うのだから、同じ動物(ゴリラ)には最初からなれっこなかったのだ。
マッチョイズムを信仰している人から見て「正しい」あり方、「正しい」生き方をしようとするのはもうやめよう。この部族の中で認められるためだけに身を粉にして働くのはやめよう。
そう決めた。
所属することが全てではない
いま私が働いている会社の同僚は、辞めた人のことを悪く言う。辞めた人の「その後」を噂しては馬鹿にするのだ。
私はそれがすごく嫌だった。
また、私が「会社をやめようと思うんですよね」と言うとみな「じゃあ次はどんな会社で働くの?」と聞いてきた。今の会社をやめた後に別の会社で働くことがマストだと思っているようだ。
私はそれも嫌だった。
先述の本には、キャリアブレイクした後のことについてこう書かれている。
再就職という感じではなく、社会へ再接続といった感じです。 (中略)どう働くか、ではなく、どう社会に接続するか。
接続の仕方を模索します。
会社組織に所属することが全てではないのだ。
社会に接続する方法は他にいくらでもある。
上手にキャリアをブレイクさせるために
とはいえ、今の私に必要なのはとにもかくにも休息だ。 先のことを考えるよりも、まずは整えることから。
そのためにはまず業務を遅滞なく推進し、過不足なく後任に引き継ぎ、良い形で辞めたい。
よいキャリアブレイクを迎えるために。
ここでまた頑張りすぎるとよくないので、適度に力を抜きながら、やるべきことをやるべきときにやるべきかたちでやっていきたい。